2014.3.17 @横超忌

山本哲士


 私がかつて学んだ先輩ばかりがいらっしゃる前で、非常に恐縮しつつも僭越ながらはっきりいくつか申し上げたいと思います。

 吉本さんの「心的現象論」の本論は、アソシエという会で心的現象論について講義をしろと誘いをうけ、講義の途上で、まず私家版で一度まとめました。その私家版一冊を持って、10部ほどの作成許可をいただき、それを土台に誤植とか誤記とかをチェックいたしまして、ここまで来たのでこの際本にしませんかと吉本さんに申し上げたのが一つ。

 一方、私自身が出版社に嫌気がさしていたものですから、自分で「文化科学高等研究院出版局」として出版社を立ち上げました。学者・研究者が自分自身で知的生産・文化生産・研究生産する、そこに吉本さんの本で権威付けをしてほしい、大学教師のお偉方をたてる気はまったくない、吉本さんの存在こそを質の権威としたいと申し出ました。それで企業関係に援助資金をお借りしてですね、しかも30年もかけて記述されたものに印税10%はおかしいと、20%を最初にお支払いするようにして、それで本論の普及版2000部と、他方、豪華箱入り本をオンデマンド形式で作りました。全部借金も返済できました。連載が終わって10年たっていながら、出せる力量をもった出版社も編集人もいなくて放置されていたものです。以前『吉本隆明戦後55年を語る』という12巻の編集を一緒にされた、三交社の社長であった高橋輝雄さんに校正等を統轄してもらい編集関係総動員して仕上げたということです。

 同時に、これの英訳をなんとかしなければいけないということで、アメリカの方に呼びかけているのですけれども、なかなか進まなくて。吉本さんの「カール・マルクス」を英語訳した若い方がテキサスにいるのですが、その彼などを中心にしながら、なんとか英訳をしていきたいとよびかけてはおります。

 心的現象論の英訳が出たなら、世界はぶったまげます。心的現象論の地平に、世界の思想は届いていません。

 さきほどの話にありましたけれども、吉本さんを「古い」などと言っている大学教師や知識人は、他者を否定すれば自分が優位にたつとおもいこんでいる、何も読みえていない単なるバカです。吉本さんはこれからこそ本当に読まれて生かされていく、世界思想の中にきちんと位置づけられなければいけない偉大な思想家であり、吉本さんの言説地平に届いている世界の人はいない。相当しっかりと、これから我々が心して吉本思想を世界へ位置づけていかねばならないと思っています。

 私はちゃんと世界線でも勉強していますから。フランス思想もアングロ・アメリカの思想もスペイン語系の思想・理論も勉強していますけれども、とても誰もたどり着いていない閾に吉本思想はあります。吉本思想を無視していることに象徴される、大学教師の不勉強さ、バカさ加減が横行しているような大学に嫌気がさし大学を見限って、私は大学教師をとっとと定年前に辞めましたけれども、自分で研究所をつくり、ジュネーブにも拠点をおいています。

 私の知り合いの一流のフランスの哲学者とか、アングロ・アメリカの学者たちに、あなたたちは吉本隆明を読めないだろう、日本語を読めない、私はあなたたちを読んでいるのに、ざまあみろと。これを読まずしてあなたたちは思想や理論をぜったいに語れませんよ、と、私はそういうふうに言っている。「良寛」はアジア的ということが簡潔に示されえておりボリュームもちょうどいいので、英訳して、雑誌掲載し、彼らには見せています。

 吉本さんはそういう普遍尺度を転移しうる世界地平にあります。

 例えば今私はラカンと、吉本さんの「共同幻想論」と「心的現象論」と「言語にとって美とはなにか」を重ねて考察していますが、ラカンの読みが深まると同時に、ラカンの限界地平が非常に鮮明に見えてくる。

 いわゆる表出論、幻想論、心的なものの重なり合いにおいてですが、たとえば、ラカンが無意識にたいしてランガージュとシニフィアンにおいて、シニフィエがないというカタチで顕在化させたとき処理されてしまったところの間の隙間を根本的に組み立てていくことができます。記号作用に「表出」概念がとられていないと、幻想構造が、欲望と対象との関係における対象構成として把握されますが、心的内容構成になっているだけで、共同幻想・対幻想・自己幻想の構造的差異関係がつかまれない。他方、象徴界・想像界・現実界の「対象a」という穴が、そこにからんでくる。ラカン的な構成と吉本的構成とのずれのなかで、相互の限界、あるいは語られていながら考えられえていない閾が、鮮明にうきだしてきます。たとえば、なぜ個人幻想が共同幻想へからめとられてしまうかの根拠です。商品や制度の物象化が幻想編制されてしまう。ここなくして、社会主義革命だなどと政治実践していくから間違える、ラカンは「剰余享楽」だと「剰余価値」を布置換えしましたが、「資本」概念を享楽の欲動表出としてみていかないと商品形式論をしていくだけであり、商品と資本との違いがまったくつかみとられていかない、また労働が類的存在化され、自然疎外からつかまれない経済搾取論にしかならない、などなどそういうところの理論作業を、私の役目だというふうに思ってやっております。マルクス主義、その最高形態である構造主義では見えない閾です。政治、経済、言語の絡み合いです。フーコーと吉本さんとの理論関係の地平は、もうすでに私なりにやりおえていますが、社会主義(国)批判とレーニン批判を権力論と幻想論とのからみあいからなすことで開かれる閾であり、セクシュアリテと対幻想とジェンダー論のからみからみえてくる閾です。

 別な言い方をすると、日本という文化・言語の土壌にいなければできあがらなかった思想だということです。主語のない述語ランガージュが日本語ですから、その日本の文化と土壌に則した思想言説が理論的に開示しえる閾を、吉本思想は本質論から示しえているのです。辺境の日本ではない、主語・述語・コプラの命題構成がなりたつ主語言語等、世界で八カ国語ぐらいしかない、欧米の方が辺境なのです、述語言語の方が人類的に本質です、「言語美」は、述語論視座から見直していくことです。吉本思想はその普遍・本質を総体的につかみとっている思想かつ理論です。その遺産をふまえずして、知的思考など、たんなるお喋りです。

 日本自体においても、<もの>という原初次元から私なりの思考をしておりましたところ、一方では実朝論、西行論で万葉的なもの、古今的なもの、新古今的なもので<もの>が「物」へと転じられていく、他方で近世の素行、仁斎、徂徠、が、<もの>を「物」化していく言説編制をなしていくのですが、日本のことばや言説の本質相でなにがおきているのかを鮮明に吉本さんはえがきだしている、それが思考考察の指標になりえます。これら近世言説は「丸山真男論」で吉本さんがすでに見事に射抜いて指摘している、逆に丸山眞男の了解閾が政治思想と政治制度との関係づけにおいて顚倒している。丸山眞男は、私から言わせると東大の教師でなければ誰も相手にしなかったと思うのですけれども、丸山などより優れた思想史研究者はたくさんいるのに、いまだに祀られている。和辻哲郎から時枝誠記もそうだし、申し訳ないですが廣松渉もそうですけれど、東京大学哲学・国語学は間違いだらけのものを意図的に作っている。時枝自身が「言語美」が分からないと述懐している論稿がありますが、でたらめ国語学のバカに分かるわけが無い。三上章や松下大三郎や佐久間鼎などを無視して、東大国語学を奉っている日本語研究の愚鈍ですよ。これは吉本さんの思想基準からいくと、学問的・研究的な地平の限界は鮮明に見えてくるんですね。アカデミズムの拒絶ではない、質そのものの停滞がです。

 それを吉本さんを、要するにオウムがどうした原発がどうしたとか、『反核異論』を出した、その表層の情況指摘次元で読んだつもりになって、疎外表出の根源でなにがなされているのか把握する事なく、吉本さんを否定したり、排除したり、無視したりということを偉そうにやっている。3つの本質論をなにも理解していないからです。そういう中で、少なくとも世界思想の地平で吉本さんをきちんと位置づけなおしながら、世界というものを現在から歴史性から、もう一度読み解いていくという作業を、これから本当にやっていく時代になるだろうというふうに思います。

 私自身は、ひたすら自分へむかって学生時代の昔から吉本主義者になるまい、吉本主義者になるまいと、魅力に誘惑されないよう言い続けながら、吉本さんが本質や歴史性を顕在化させた地平をなんとかつかんでいこうということをやってきております。自身の存在の欠落、不能化に、慰みと開き直りをよびかけてくる吉本さんの魅力ってありますから。いたずらに自分の追憶にひたって吉本崇拝する者も、吉本をしっかり読んでいないです。<読む>ことでの了解と関係づけは、基礎の基礎ではないでしょうか。

 ちょっと自分のことを申し上げますと、大学闘争が終わって敗北の泥沼状態のままメキシコへ行って、メキシコのイバン・イリイチの研究センターで学校批判や医療批判の膨大な文献があるということを初めて知った。またメキシコ革命史など勉強しながら、そのとき同時にほとんど構造主義のものを私はメキシコのスペイン語訳で読んだのですけれども、その了解閾が英訳とも、フランス語原語とでぜんぜんちがってくる体験をもっています。そこは「異文化」などで処理はできない。そのなかで、日本で意味あるのは吉本しかないという実感をもった。海外移入に便乗、依拠するなとかいうけれども、海外移入なんて日本でなんにもされていないじゃないかという現実実際に気づいて、そのあとフランスへ行ったり、イギリスやUSAへ行ったりしながら、海外の研究者たちとの交流を深めていますけれども、日本はうわっつらすぎる。

 マルクスもそうなのですが、時事的、情況的な発言は、本質論をふまえて注意深く考えていかないと、大きな誤認をもたらします。

 ようやく最近、海外移入がすこしまっとうになってきています。今までひどすぎるんですけれども、ようやくまっとうになってきているのだけれど60年代、70年代の吉本さんと平行してなされていた非常に困難な難しい思想・理論というのはまだまだ翻訳も了解もされていない。その先のポスト構造主義的な軽薄な海外ものが、上っ面だけで、安っぽい学者たちによって、それからはっきり言いますけれども商業出版の売れるか売れないかの低次元裁断によって、日本で消費文化再生産されている。この壁をなんとかぶち破らないとならないということで、自分で雑誌もつくり出版社も作って、海外の人々と直接交流しながら作業を進めてきたということです。

 大知識人の時代は終わったというふうに言われますけれども、それは本当にそうでして。吉本さんで終わったのと、メキシコでは今年オクタビオ・パスが生誕100年なんですが、オクタビオ・パスで終わった。彼らはサルトルなどの二流次元ではない。こういうオクタビオ・パスとか吉本隆明とか、いわゆるアジア的な世界にいる偉大なる思想家は、世界でまだまだきちんと扱われていない。それからメキシコの友人でアウスティンという人類学者がいるのですが、その人類学考察はレヴィ=ストロースの比ではない。要するに、そういうことが世界次元でさえ全然なされていない、そのなかでの、欧米主義のしかも表層の、低開発な日本の文化・思想状況なんです。

 そうしたなかで、今私はともかく死ぬ前に吉本さんの心的現象論の英訳だけはなんとかどこかで出して死にたいというふうには思っています。これはまたお金のマネジメントがなされないと、なしえません、日本の学者は、そこがまったくだめです、給与にしがみついて、国家政策下の文科系のみみっちい研究費で創造活動ができない、アカデミズム社交集団に容認されることしかしていない。吉本思想をふまえていくと、存在基盤がぶちこわされるので、賢く逃げて自己保存して、吉本は古いとか、いい加減だとか、詰めが甘いとか、知的ぶっている、読みもしない、理解もしえない、ごまかしで博識・本物ぶっている専門不能人たちです。研究状態環境が貧困すぎるのですが、それを改善せずに甘んじているのも大学人です。

 心的現象論は正直言って、ほとんど読まれていません。これは、非常に優れた歴史論でもあります。人間・人類の普遍規準が転移されています。単なるフロイトとか心的な問題を扱った本ではありませんので、ぜひとも一度しっかり読んでいただければと思います。

 もう一点だけ申し上げますと、共同幻想論の古事記の述論はじつは間違いだらけなんです。なのに本質論としてまったくぶれていない。こういうのを「すごい」といえるんではないでしょうか。間違いをどうして私がわかったかというと、「共同幻想」概念を徹底して使うことでよくわかった。

 どういうことかと言いますと、吉本さんはそこで日本書紀と古事記のどっちを使ってもよかったという言い方をしていますけれど、日本書紀を使ったならあの共同幻想論は絶対に作られていない。古事記論をやったことによって作られたのです。でも、とりあげた記述の位相は書紀的にとどまっている。

 しかしながら古事記論によって作られた共同幻想論はなにかというと、私自身『国つ神論』で古事記を読み込んでわかったのですが、高天原共同幻想と葦原中国共同幻想、黄泉国共同幻想。この共同幻想の位相が違う、そこに「すめらみこと共同幻想」が構成される、ということを吉本さんの共同幻想論をツッコんでいくとそういうふうに読めるのです。場所共同幻想と国家的共同幻想との位相の違いと相互性ですが、これは宣長の「古事記伝」が垂直構造的に見誤ったところに対応します。黄泉に禍津日神などをあえて布置した宣長、また篤胤も、その幻想技術は古事記の幻想技術とちがう、つまり幻想の言説編制のちがいが、鮮明にうきだします。日本には、書紀的な一元均質空間設計と古事記的な多元場所設計との二つの異なる設計原理が共存している、さらに「天つ神」共同幻想は天皇とはちがいます、天皇系はそこを巧妙に見事に幻想編制していく、などなど。

 逆の言い方をすると古事記研究者たちがどうしてみんなトチっているのか、それは共同幻想概念がないからトチるんです。ですから梅原猛や西郷信綱からはじめですね、ほとんど全滅状態。古事記がなんにも理解されていない。これは吉本隆明の共同幻想論を持ってこないと、絶対に読めない。かろうじて神野志隆光氏だけが、文献的にしっかり読めているぐらいです。

 こんな作業を学者たちが怠慢で放棄しているということがですね…私は学生時代から大学教師を吊るしあげているわけですけれども、未だに吉本さんへの対応といいますか、吉本思想への関係姿勢で、知性は測定できるというふうに私は思っています。「前古代」など文献資料的にない、しかし「史観の拡張」で思想的にみていかないと<日本>はつかめないです。

 いずれにしても、学者って99%がバカですから。しかし1%はほんとに優秀です。バカな集団が集まって、多数決で不能世界を正当化し、無知懶惰な学生に依拠して教えて、そのバカの再生産が50年から100年も続いちゃったのですけれども、この日本が滅びようとしているときに、一人でも二人でも多く吉本隆明というものの思想と理論と、その深みの意味をしっかりとつかんで、ぜひ次へ繋げるような言説生産の作業は続けていかなければいけない。少数でしかないですけれども、少数でもとにかくやり遂げるということを、私はそのひとりとしてふつつかながらめざしております。

 すみません、それからもう1点。お詫びだけしておきますと、『55年を語る』が12巻になってしまったのは、じつは12巻にばらまいて商売したいのではなくて、一巻一巻ごとに同時代の思想家・評論家の方たちに同時代的に語って欲しかったのです。ところが、それをアプローチしましたら、ほとんど全員が韜晦していまして、対応できないんですよ。

 はっきり言いますけど桶谷秀昭とか、尊敬する藤田省三さん、内村剛介さんもダメ、そういう人たちがどうしようもない、本当にがっかりしてしまった。それで同時代的に作れなかった。あれは本当は同時代的にその当時の理論家と思想家を入れて、一冊一冊を証言的に作りたかったんですけれど、それが破綻しちゃいまして、非常に申し訳ない結果になってしまった。これは今年、うちの出版社で一冊にまとめなおしておきます、非常に貴重な記録ですので、乞うご期待ということで、よろしくお願いいたします。

 吉本さんの詩に「ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろう」というのがありますが、ほんとのことを言うと自分は孤絶する、しかし、それを恐れるな、小賢しくなるなという態度を教えてくれたのは吉本さんです。吉本さんとのかなりの長きにわたる徹底した直接の対話をなすことができた、それはほんとに最大の至高の財産です。心からの感謝です。

 【了】

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