吉本隆明全集(晶文社)によせて
―時代への覚悟、風への決意―

小林康夫


 今年、晶文社が『吉本隆明全集』(全38 巻・別巻1)の刊行をはじめると聞いて胸をつかれた。数年にわたる大事業である。かならずしも大出版社とは言いがたい(失礼!)晶文社がそれに取り組む。そこになにか「時代への覚悟」とも言うべき決意をわたしは感じる。歴史が大きく転換しようとしている現在、われわれがなにを、誰を、どんな思想を思い出すべきなのか、この企画はそれを問うている。

 おりしもわたしは、大学の図書館からカヴァーもぼろぼろになった勁草書房版の『吉本隆明全著作集』のいくつかの巻を借り出して、学生たちとともに初期の詩篇を読んでいたところだった。東大の駒場図書館におさめられた個人全集のなかで、間違いなくこの全集がもっとも破損がひどい、つまりもっとも読まれている。テープで補強すらしてある背表紙にそっと触りながら、長いあいだにわたって吉本隆明の言葉がどれほど多くの学生たちの魂を明るくしたか、奮い立たせたか、と思い馳せる。なぜかれの言葉がこれほどに訴求力をもちえたのか。

 答えは簡単ではないが、いま、わたしが思うのは、なによりも吉本が敗戦後の虚無のなかから、なんと!明確に「光」を断念することで、しかし断固として「出発すること」を言葉によって組織したこと。言い換えれば、お手軽な超越的な理念にすがることなく、自分の言葉だけで、言葉を通して、出発しようとしたこと。つまり、もっともラディカルな意味で「詩」。最初期の詩「異神」のなかで、かれはすでに、異国の神を慕うことなく、自分はあくまでも「わが心をはなれて仏心もなく、仏心をはなれてわが心もなきものなり」というこの「東方の岸辺」、すなわち「絶えず風が寂しくすさんでいる流離の岸辺」に佇みつづけると宣言していたではないか。

 吉本隆明は「東方の岸辺」に立ちつづけた。そこから言葉によって、みずからが依って立つすべての思想を、まったく独自な、固有な仕方で構築しようとした。かれは、多くの戦闘的な文学批評を書いただけではない。人間がこの地上に「関係」の組織を通して「意味」の世界を構築していくプロセスそのものにラディカルな問いを差し向けたのだった。

 吉本は、「心」を問い(それは『心的現象論』という長い探求をかれに課した)、「国家」あるいは「共同体」を問い(それは『共同幻想論』という前代未聞の論考として結実した)、そして「言語」あるいはその「美」を問う(それは『言語にとって美とはなにか』という不思議な味わいの書物を生み出した)。60 年代から70 年代にかけてなされた、孤独のうちに思考を追っていくこれら「三部作」は、かれの「自立」への意志がどれほど真正で、徹底的にラディカルであったかをはっきりと証言しているのだ。

 だが、さらに驚くべきことは、多大な困難を通して構築したこの「思想的拠点」すらも相対化する歴史の転回に対しても、吉本が軽やかに対応できたということである。『マス・イメージ論』、『ハイ・イメージ論』に結晶する80 年代の吉本の論考は、みずから造りあげた言葉の「塔」に閉じこもるのではなく、それがどんな風であれ、吹いてくる風を全身で受け止め、それに真摯に問いかける、けっしてみずからを閉ざすことのない一個の「直接性」、一個の「純粋性」としてかれが立ちつづけていることを鮮やかに証明している。孤独で、しかしなんと明るい自由であることか、それは。

 吉本隆明という恐るべき「言葉」の出来事は、長いながい日本語の歴史にあって、孤高の独立峰を形成している。70 年代以降の歴史の「季節」が一回転し、2011 年のカタストロフィックな断絶を経て、われわれはいま、まったく新しい「季節」に突入した。われわれは、またしても安直な「光の詭計」を断念して、もういちど新たな出発を組織しなければならない時にいる。

 吉本隆明を読み直さなければならない。吉本隆明の「風」を問う、その仕方を学ばなければならない。「時代への覚悟」がいま、求められている。

こばやし やすお
東京大学大学院総合文化研究科 教授/現代哲学・表象文化論

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『本を選ぶ』№344号より

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