父にとって考えることと仕事をすることは呼吸のようなものであり、日々の挑戦であり、唯一の憩いであった。
父は玄関先に急に読者さんがいらしても決して断ることなくお茶を出し、いつまでも話を聞いた。晩年足が痛くても、糖尿病で親指が氷みたいに冷えていても、寒い玄関で立ってずっと話していた。
精神的に病んだ人がいれば「もし本気でずっとその人だけにかかりっきりになれたら、治るかもしれないんだけどねえ」と言った。幼い私が「どうしてそうしてあげられないの?」と聞いたら「なかなかそこまではできないもんだねえ」と答えた。
「お前とか娘とかの成功が憎い、末代までたたってやる」という人がいれば、「こんなことまで言う人がこの世にいるなんていやあ、驚いた」と本気でびっくりしていた。
散歩と買い物と夏に海に一週間行くことと二時間ドラマを観る以外には特に娯楽もなく、ほとんど旅行もせず、女遊びもしないし教授にもならないし、酒にもグルメにも興味がなかった父。
家からお金がなくなったときに出入りの人の名を出したら「人を疑うくらいならお金なんてなくなったほうがいい」ときっぱり言った父。
病院で高熱を出し死の床にいても「支払いのことで心配があったら俺に言ってくれよ」と何回も言っていた父。自分の容態については一度も泣き言を言わず「お母ちゃんはどうした、お姉ちゃんは大丈夫か」と家族の心配ばかりしていた。
これほど人を救った人の望みが叶わないはずがないと心から信じていたが、この不況の時代に全集を出そうという出版社はなかった。
晩年、ぼけて仕事が思うようにできなくなった父が、弱々しい笑顔で「間宮さん(この全集の目次を編んだ編集者さん)の目次はほんとうに考え抜かれていて感心したよ。出せたらほんとうに嬉しいけれど、今の時代はそんなに甘くないからねえ」と言った。
そんなことはない、必ず出る、今じゃないかもしれないけれど、必ず残るよ、と姉と私と間宮さんはくり返し父に言い続けた。父は淋しそうに「むつかしいと思うねえ」と言い続けるばかりだった。
お父さん、社長の太田さんや晶文社のみなさんや間宮さんが、死にものぐるいで作ってくれているよ、やっぱり出るよ。いつか私が死んだら、真っ先にそれを父に言いに行こう。いや、必ずもう届いているはずだ。
* 寄稿時は、よしもとばなな名義