▼吉本隆明の源流をたどると、吉本家は熊本県天草郡御領村(現・天草市五和町)の出。隆明の祖父・権次が近くの志岐村に出て造船業を起こし、百トン級の船の造船所として成功。海運業も営み一時は志岐村の長者番付の四位になるが、明治末の地域の造船業界の変化と大正期の不況で行き詰まる。
父・順太郎が新規に製材業を試みるも及ばず、持ち家が差し押さえられたことをきっかけに1924(大正13)年春、天草を出奔、上京する。吉本一家が移り住んだ月島は東京湾内の埋めたての島。工業地帯で造船所や関連の工場もあった。折から東京は震災後の「帝都復興」事業で大工・船大工の腕を持つ父・順太郎が再起を期すのに適していた。
11月25日 隆明、吉本順太郎・エミ夫妻の三男として、東京市京橋区月島東仲通四丁目一番地(現・東京都中央区月島四丁目三番)に生まれる。家には祖父・権次と祖母・マサ、長兄・勇、次兄・権平、姉・政枝が住む。
遅くともこの年までに隣の島、新佃島西町一丁目に越す。棟割三軒長屋の角。
4月 弟・冨士雄、同地で生まれる。
この頃(推定)までに父・順太郎、月島に釣り船・ボートなどを作る「吉本造船所」を起こす。傍ら遊興用の貸しボート屋を始める。
2月 妹・紀子生まれる。
4月 隆明、佃島尋常小学校に入学。
この年、深川区(現・江東区)門前仲町の今氏乙治の学習塾に入る。進学のためだったが合格後も通い、この塾で文学に目を開く。
4月 東京府立化学工業学校応用化学科に入学する。
この年(推定)、一家は同じ新佃島の西町二丁目に越す。商店街の一角の棟割三軒長屋の真中で、両隣は焼き芋屋と雑貨屋。
同月 吉本家、住宅営団の土地付分譲住宅を十五年の月賦で購入する。翌年にかけて葛飾区上千葉四一八(現・お花茶屋二丁目)に移住。
4月 米沢高等工業学校応用化学科に受験成績一番で入学。山形県米沢市の学生寮で暮らす。
12月 次兄・田尻権平陸軍中尉、飛行機の墜落事故で死去(行年二十四歳。没後大尉に特進)権平は幼い頃、天草から共に上京した伯母夫婦の養子になっていた。
9月 米沢工業専門学校(戦時下の改称)を繰り上げ卒業。
10月 東京工業大学電気化学科に入学。以降、翌春まで、学徒動員でミヨシ化学興業の研究室で働く。この間、山形県左沢(あてらざわ)に行き徴兵検査を受ける(甲種合格)。
3月 東京大空襲で恩師の今氏乙治を喪う。
4月下旬頃 日本カーバイド工業魚津工場(富山県)へ同期二人と赴く。当時、同工場は有人ロケット戦闘機「秋水」の燃料製造を担っていた。燃料製造の開発に東京工業大学が関わっており、担当の教授もしばしば訪れた。隆明らは製造装置を作る段階から携わる。同社の寮で暮らす間、農村動員で埼玉県大里村で働き、また立山へ登山。
5月頃 吉本家の女性(母・兄嫁・妹)、福島県稲田村(現・須賀川市)の養蚕農家に疎開。
8月15日 敗戦の放送を工場で聞き衝撃を受ける。程なく魚津を離れ、母らの疎開先と東京を行き来する。
9月 東京工業大学電気化学科を卒業。以後、幾つかの中小工場で働く。
1月 姉・政枝、結核のため厚生荘療養所(現・多摩市)で死去(行年二十五歳)。新佃島の東京石川島造船所に勤務中に発病し療養生活に入る。八年余の療養中に短歌に親しむ。
4月 「特別研究生」の試験を受け、母校・東京工業大学に戻る。「特別研究生」は戦時中に兵役や徴用から研究者を守るために発足した制度。有給で二年間の研究生活を送る。
4月 東洋インキ製造株式会社に入社。化成部技術課に配属。同社青戸工場に通う。
8月 父・順太郎に資金を借り、詩集『固有時との対話』を自費出版。
4月 東洋インキ労働組合連合会会長および青戸工場労働組合組合長となる。
10〜11月 賃金向上と越年賃金の闘争を指導。青戸工場を拠点に闘うが敗退。隆明ら執行部総辞任。
1月 隆明ら闘争の中心になった組合員九名に配転命令。隆明は母校・東京工業大学へ長期出張を命じられる。
12月 上千葉の実家を出て文京区駒込坂下町にアパートを借りる。四畳半一間。
6月 本社総務部への転勤辞令を機に東洋インキ製造株式会社を退社する。
7月頃より黒澤和子と同棲。
8月 長井・江崎特許事務所に入所。国際関係の特許の翻訳・書類作成等に従事。
10月中に北区田端町三六五番地に越す。二階建てアパートの六畳一間。
5月 黒澤和子と入籍。
12月 長女・多子誕生。
10月 文京区駒込林町に越す。二階建ての四世帯アパート。六畳二間。
7月 台東区仲御徒町二丁目の庭付一戸建ての家に移る。義弟の同僚の持ち家を転勤のあいだ借りたもの。
6月 六〇年安保闘争の六・一五国会抗議行動で逮捕、二晩留置される。
『試行』創刊(発行日・九月二十日)。「言語にとって美とはなにか」の連載開始。
6月中に台東区谷中初音町四丁目に越す。木造二階建ての二階部分を借りる。
11月 熊本・福岡での講演の合間に、初めて父母の郷里・天草を訪れる。母の実家を尋ね、父の従兄弟に会う。
7月 次女・真秀子誕生。
6〜7月 北区田端町三一七番地に転居。建て増しをした大家の旧宅部分を借りる。風呂付きの平屋。
11月 お花茶屋で食料品店を営んでいた長兄・勇、喉頭癌のため死去(行年四十八歳)。
2月 編集者・岩淵五郎(春秋社編集長)を全日空機羽田沖墜落事故で喪う(行年三十八歳)。岩淵は隆明の『模写と鏡』などを手がけ『試行』の校正を手伝う。今氏乙治、父・順太郎と共に「大衆の原像」として敬愛していた人物。
6月 文京区千駄木一丁目に建売住宅を割賦で購入。六軒の借間・借家を経て、初めての持ち家。借地権で家屋のみ。
4月 父・順太郎死去(行年七十五歳)。
12月 『共同幻想論』(河出書房新社)刊。
10月 十三年間勤めた特許事務所を退職。
7月 母・エミ死去(行年七十八歳)。弟・冨士雄の妻・美恵子によれば、隆明は毎月、両親の暮らす冨士雄宅を訪れて小遣いを手渡すのを常としていたという。
10月 文京区千駄木三丁目の閑静な場所に宅地約二百二十㎡を購入。家を建てる予定だったが実現しないまま後に手放す。
10月 『最後の親鸞』(春秋社)刊。
3月 文京区本駒込三丁目の現在の住居を割賦で購入。借地権で家屋のみの所有。
6月 佐賀市での講演の後、天草を再訪する。のちに詩集『記号の森の伝説歌』(角川書店)となる、連作詩の取材の旅。
8月 長女・多子、『ラストセイリング』で第3回「ララ新人まんが賞」に準入選し(入選なし)、デビュー。筆名・ハルノ宵子。
7月 『マス・イメージ論』(福武書店)刊。
8月頃 雑誌『アンアン』(九月二十一日号)にファッション論を寄稿。肖像写真の撮影で「コムデギャルソン」の服を着る。翌年、埴谷雄高と「コムデギャルソン論争」。
9月 イベント「いま、吉本隆明25時〜24時間連続講演と討論」を中上健次、三上治と主催。東京・品川の倉庫で講演・対談・芝居・都はるみの歌唱指導等の24時間。
10月 次女・真秀子、『キッチン』で第六回「『海燕』新人文学賞」を受賞しデビュー。筆名・吉本ばなな(よしもとばなな)。
10月 一級建築士の弟・冨士雄、工事中の転落事故がもとで死去(行年六十歳)。
10月 講演「わが月島」を行う。会場の「月島社会教育会館」は隆明が生まれた住所のすぐ隣り。月島地区の百年の歴史と未来を語る。
9〜10月 東京・八重洲ブックセンターで「思想詩人吉本隆明&吉本隆明写真展」開催。吉田純撮影の写真の展示、本のフェア、サイン会他。
8月 家族と夏の休暇を過ごす西伊豆土肥海岸で、遊泳中に溺れる。
この事故の後、持病の糖尿病の合併症による視力・脚力の衰えが進む。以降、読み書きは虫眼鏡、電子ルーペ、拡大器を用いるなど努力を要し、著述は、口述やインタビュー後にゲラ刷りを校正する方法が多くなる。脚力・体力の回復のため自分流のリハビリに取り組む。
『試行』74号を以て終刊(発行日・十二月二〇日)。創刊以来、妻・和子が事務を担ってきた。
9月 和子、初めての句集『寒冷前線』(深夜叢書社)を上梓。
2月 真秀子、男児を出産。
2月 下血で日本医科大学付属病院に入院。虚血性大腸炎と診断される。検査中に横行結腸に癌が見つかり、翌月手術。
5月 『老いの超え方』(朝日新聞社)刊。
7月 昭和女子大学人見記念講堂で「芸術言語論〜沈黙から芸術まで〜」を講演。車椅子で登壇し、聴衆2,000人に向け約三時間話す(「ほぼ日刊イトイ新聞10周年記念講演」)。
1月 NHK、前年7月の講演を中心に構成したドキュメンタリー「吉本隆明 語る〜沈黙から芸術まで〜」を放送。
9月 花巻市主催第19回「宮沢賢治賞」受賞。贈呈式に赴き受賞記念講演。
1月22日 発熱のため日本医科大学付属病院に緊急入院。以後同病院で加療。
3月16日(十五日深夜)肺炎により死去。行年八十七歳。17日に通夜、18日に葬儀が築地本願寺和田堀廟所で執り行われる。9月15日同廟所の吉本家の墓に納骨。法名・釋光隆。
10月9日午後 妻・和子 自宅で老衰により死去。行年八十五歳。11日に通夜、12日に葬儀。12月9日に納骨される。法名・釋清和。