一〇・2、3 二つつ←二うつ
五〇三・6 抗(あらが)ふ←抗(あがら)ふ
【解題八一〇ページで校訂したことを断ったのに、原文のままになってしまっていたので改める】
七七〇・下19[行頭『あったかもしれない。』の後に]またこの詩稿集には米沢時代に触れる詩もかなり含まれている。
【このことを指摘しておいた方がよいと判断した。】
七七一・上7 二つつ←二うつ
【七七二・上15―16の間に、以下のように補う】
一〇・2、3 二つつ←二うつ=「二つ」と書いている他の場合と区別して、「二つつ」(ふたっつ)と読ませるための最初の「つ」の上に点を打ったのだと判断した。
七七四・下17「遍」、「偏」と書かれることが一般的な場合でも、「扁」と書いているが、一般的な用字に校訂した。←「遍」、「偏」を「扁」と書いている。
【この著者の用字例は、のちのちまで見られる。第二七巻収録「親鸞の十八願」解題参照】
第二七巻収録「親鸞の十八願」解題
(吉本隆明全集27巻 1992-1994 646p所収)
親鸞の十八願解題
文藝春秋編『エッセイで楽しむ日本の歴史 上』(一九九三年十一月一日、文藝春秋刊)に発表された。末尾に「<筆者が推薦する本>として「親鸞聖人全集刊行会編『定本親鸞聖人全集』全九巻(宝蔵館)/真継伸彦・現代語訳『親鸞全集』全五巻(宝蔵館)/石田瑞麿全訳『親鸞全集』全四巻(春秋社)の記載があった。本全集に初めて収録された。『吉本隆明資料集54』(二〇〇六年四月二十五日)にも収録された。br>
四七一・7、10、四七二・2,9,11,19、四七四・7 編←[初]扁=著者は青年期から、一般的には「遍」の文字をあてるところで「扁」の文字を使用していた。第二巻四五・8、六九・10、第一巻四七八・1の註参照。
二巻四五・8、六九・10とは、第二巻 1948-1950の45ページの「貪婪なる樹々」という詩が収録されているページの詩のタイトルも含んだ8行目「<もう何遍もやつてきたことだ」の遍の部分と、69ページの「回帰の幻想」という詩のタイトルを含んだ10行目「とほくとほく行ってしまふ風の偏向」の部分の解題のことと思われる。
まず「貪婪なる樹木」の解題部分には
「四五・8 何遍←[原]何扁=著者はしばしば「遍」、「偏」を「扁」と書いている。」(774p)とある。また、「回帰の幻想」についての解題には、「六九・10 偏向←[原]扁向」とある。
第一巻四七八・1の註とは、第1巻 1941-1948の478ページから始まる詩「巡礼歌 ――La idéalisation――」の2ページめ「二三篇の称名をくりかへし」という部分である。この部分についての間宮武彦による註で第一巻555ページからはじまる解題の556ページにある。
「四七八・1 二三篇=『全集撰1』、『吉本隆明書記詩集』では「二三遍」とされている。」
七八五・上5 四四二、6―7の間←四二三、6―7の間
【第一巻の訂正で述べたもの。第一巻が訂正された後は、この七八五・上4―下1の( )内は不要になる。】
七九一・上14「」日時計篇以後」←「「<手形>詩篇」
【第三巻で改称したことを断っているので改める。】
七九一・上16「詩稿X」には感嘆符は「暗像」他五篇にしか見られず←「詩稿X」には感嘆符はまったくみられず
七九一・上17 「残照篇」でも「革まる季節」他六篇でしか←「残照篇」でも「街」一篇でしか
【論旨に変更の必要はないが、確認が杜撰で我田引水な記述になってしまっているのを正しく改める。】
【「エリアンの手記と詩」制作時期の推定、その他の理解に関連して、七九四・下4-5の間に、以下のような追加的記載を補う。】
《追加補記》
(i)「エリアンの手記と詩」の「元の影響」となったアンドレ・ジイドの処女作『アンドレ・ワルテルの手記と詩』は、邦訳者・三好達治の「あとがき」とジイドの「序」によれば、『手記』がワルテルという人物の死後その遺稿を整理したものとして、ジイドの名前は伏せて出版されたものであり、「手記の刊行後ほどなく」書き上げた詩篇を、のちにジイドの名を明かし、二つを合わせて刊行されたものということになる。この入り組んだ経緯のジイド作品に倣っているということは、エリアンは自分自身だと著者があらかじめ告げていることになる。またそれは『エリアンの手記と詩』はエリアンについての手記であると同時に、エリアンが書いた手記と詩という意味にもなる。そしてエリアンの遺稿という含意もそこには滲んでいる。
(ii)この「手記と詩」の中で一番よく使われている記号は一重山鍵< >であり、会話の言葉、内心の言葉、手紙の文面の引用、語句や文を地の文から少し区別したいときに使われている。この頻用される記号とは区別されて、冒頭の詩の後に、地の文としてはただ一カ所だけ、二重山鍵《 》で括られた文がある。この二行は、著者の後年の言い方に倣って言えば、著者が作者として直接身を乗り出し作中の登場人物に呼びかけている注記になると思われる。『宮沢賢治』第V章や『ハイ・イメージ論II』「段階論」などで分析・追求した記号の使用による語りのレヴェルの区別を、ここで宮沢賢治の影響下に実行していたことがわかる。そうであればこの序詞とそれへの註記は、第I節「死者の時から(I)」の冒頭にあるよりは、その前に組まれる方が妥当かもしれない。
(iii)表題では「手記」と名付けられているが、ジイドの作品に倣ったとしても、それは創作的散文というよりも、語りによる物語ないし寓話というほうがふさわしいものだと思われる。エリアンの年齢だけは「十六歳」と具体的に指示され、作品は架空の時空に設定されながら、塾の教師とその生徒である主人公と女生徒は、今市塾へ通い、府立化学工業学校を卒業し、米沢高等工業学校へ進学する時期の著者の自伝的な現実が背景とされている。登場人物の名称はもちろん、場所の名称を作るのに、実在名の音や意味をほんの少し変容させて架空化する、造語による命名の仕方に大きな影響を与えているのは、宮沢賢治であると言える。例えばプランタニイ峠は、奥羽本線がそこを通って米沢に至る板谷峠の「板」の英語plank(プランク)と訓読みした「谷」(タニ)を組み合わせて造語されている。
(iv)この「手記と詩」は、「I}から「V」までがユリアンを語り手とする「手記」になっており、「Ⅵ」から「Ⅷ」までが「エリアンの詩」、「Ⅸ」と「Ⅹ」はそれぞれオト先生とミリカを語り手とする記述になっているのだが、この最後の二節は、この作品を完成させるため無理をして作られたのではないかと思わせられる。ジイドの『アンドレ・ワルテルの手記と詩』が手記と詩の二部構成であることや、のちの著者の批評が、節が変わるごとに語り手を変えることは、長編を構成するための正攻法の手法ではないとみなしていることもさることながら、次のような点がそう憶測することをうながしている。
第Ⅸ節でオト先生はその語りの冒頭エピソードを、エリアンから聞かされた、あるいは手紙の中で知らされたことをなぞるように繰り返し、この節の表題にもされている終わりの「誡め」も「エリアンの歌から」の引用とされている。また第Ⅹ節のミリカ語るエピソードもすでに第Ⅴ節でミリカへの「風信」としてエリアンが語ったことを繰り返しているからである。(著者は米沢時代に、塾の少女との手紙のやり取りを今氏乙治への手紙に同封して託していた。)最後の二節に依ってエリアンとオト先生とミリカの三角関係が視覚的な構成としてくっきりするようになったとも言えるかもしれないが、語り手を変えたことは、著者にとっては、この作品をとりあえずまとめるためにとったやむを得ない選択だったのではないか、それが「幼稚な」と述べる理由の根幹にあるのではないかと推測する。
オト先生の「誡め」は、エリアンに対する「誡め」のように受け取れるが、それが「誡め」という表題のエリアンの詩の引用でなされているという関係も、非常にわかりにくい、まわりくどいことで、当初はエリアンの語りの中で自分自身に向かっての「誡め」として描かれるはずのものだったのではないか、という推測をもたらすように思える。(この「手記と詩」の中で、この詩は唯一エリアンに対する呼びかけを一重鍵< >でくくっている。オト先生が引用するのにエリアンのもとの詩に加筆したものと解釈すべきなのだろうか。そしてなぜ、「エリアンの詩」ではなく「エリアンの歌」なのか。また「手記と詩」のなかで、この詩にだけ二カ所、一九四九年に発表されたいくつかの詩篇にも見られる行末の疑問符が使われていて、末行末尾のリーダーとともに少女との関係の柔らかな疑念のなかに詩を運んでいるが、何を「誡め」としようとしているかがわかりにくいように思われる。
(v)他の箇所においてもそうだが、オト先生の語りの範とされたのは、『銀河鉄道の夜』の今はその本文からは消えて「初期形」とされる断片にだけ登場するブルカニロ博士の語りであり、ミリカの語りの範とされたのは『斜陽』(一九四七年七――九月)の主人公の語りであると思われる。第Ⅸ節はオト先生の諭し方と「ほんたうの神さま」をめぐる語りにおいて、第Ⅹ節はミリカの語りの中に登場する「お母様」という言葉の響きの一言の発言「何?」という言葉の響きの符合によって、そう推測される。エリアンの語りの一つの節を手紙で校正する方法も『斜陽』を範としていると思われる。
(vi)「詩稿X」(一九四八年四月)の中には、この「手記と詩」と関わりのある詩篇がいくつかある。全篇が語りによって成り立っている「宮内喜美江ちゃんに」という副題を持つ詩篇「告訣」は「エリアンの詩」や「エリアンの手記と詩」の原型を含んでいる。そこで反復されているのは、いつまでも少女と「同じ心のまんま大人になつただけだ」、「いつまでも少年だ」という言葉だが、「エリアンの詩」や「エリアンの手記と詩」でも通奏低音のように「大人になった/幼い心のまんまで」、「昔のままなのだ」「奥底を流れている細い一すぢののもの。それは幼い頃から遙かに繋つてゐた」と反復されている。その反復は「おまへは生きられない」という反復と表裏をなしている。
また、詩篇「歩行者」の余白には、きわめて印象深いアフォリズムの二行「発想の原とはとほい海のむかふにある/言葉の原はとほい時間のうちにある」が書きつけられているが(
解題778ページ参照)、
第2巻解題778ページ
(遙かなる雲にありても)
歩行者
六十五ページ目に抹消詩「歴程の日より」が書かれた後に書かれている。「(遙かなる雲にありても)」は無題である。また末尾の余白に、詩と同じ筆跡で
発想の原はとほい海のむかふにある
言葉の原はとほい時間のうちにある
と書かれている
それに似かよった言葉がミリカとエリアンの台詞(「遠い時間の海」、「遠い海の方から」)として使われている。また「エリアンの手記と詩」の題詞に使われている聖書の言葉は、詩篇「影との対話」の題詞でも使われている。
(vii)この「手記と詩」において少女ミリカは、キリスト教徒に設定されている。ミリカのモデルであった女生徒もキリスト教の信者だったとみなした方が、物語の構成要素として自然に感じられはする。しかし著者はそういう言及は一度もしていないし、またそういう事実は確認されてもいない。ただかつての女生徒は、前に引用した川上春雄宛の書簡で、今氏先生に触れたあとで著者について次のように書いていた。
「私も同じようにその非凡な才能に畏敬の念を抱いて居りましたし、こんな事を云ったらあの方は厭だなあと苦笑なさるでしょうが、私等足下にも及ばない、神のような存在でした。それで他の塾生の事でしたら、あの子の家は何屋で兄弟は何人、というような噂が自然と耳に入ってくるものでしたが、吉本さんの事丈は、佃島の方から通っていらっしゃるという事以外全く白紙でした。」
例えば、『人間失格』の最後で、自殺した主人公について、知り合いのスタンド・バアのマダムは「神様みたいないい子でした」と語っていて、これは信仰的な神という言葉が、通俗化され、流布され、社会に溶け込んだ一般的な言い回しにもなっているものだと思われる。
それに対してかつての塾の女生徒の言葉は少し違うように感じられ、三十数年後の言葉ではあるが、キリスト教徒であったのかもしれないと推測させるものがある。
(viii)著者は「読書について」で「『新約聖書』をよんだのは、敗戦直後の混迷した精神状態のさ中であった。その頃は、ちょうど天地がひっくり返ったような精神状態で、すべてを白眼視していた時期であった。[中略]いまおもうと、自分がコッケイでもあり、悲しくもあるが、富士見坂の教会などに行って、牧師の説教をきいたりしたこともあった」と回想しているが、この「手記と詩」を形成する重要な要素として、キリスト教やその神の観念をめぐるやりとりがあり、それは戦前にはなかったものだと思われる。
三浦雅士は、「一九七〇年代前半のこと」と推測される『ユリイカ』の編集者時代に、著者に直接聞いたこととして、青年時代に「キルケゴールがその一生を決定した恋愛事件と同じ種類のこと」、「キルケゴールふうの婚約破棄事件」があり、「その当の相手の女性が「三浦」という姓であったこと、「その女性の父親が牧師であったということ」を証言している。(「吉本隆明私記(1))、『吉本隆明<未収録>講演集6』月報)そのことは、川上春雄も一九六七年の訪問記のノートに、「婚約者」について「組合を追われてまったく無気力なその日ぐらしの生活をしている」一方で、女のことでそれもどうにもいかなくなりまして」と書き取っており、「この二人ぐらいわたしの過去の女出入り」として、塾の女性と婚約者だった女性の二人の姓を記している。(第三七巻所収)「資料1 川上春雄ノート」)著者の記憶違いや川上の聞き取り間違いがなければ、この婚約破棄は一九五四年ということになりそうであるが、「異神」の中で「童女」と呼びかけられているのはこの女性だと思われる。
(ix)イザベル・オト先生の名が、今氏乙治のイマウジ・オトジからイ音とザ行音とオトを取り出してつくられている、と、とりあえずみなすなら、ミリカは、川上春雄の問い合わせから知れる塾の女生徒カトリ・ミツコから逆向きに音を拾って名付けられたとすることができる。しかし同時に、牧師の娘ミウラと女生徒カトリから音を組み合わせて名付けられたとみなすことも可能なのである。
もしミリカの名前に塾の女生徒と戦後の牧師の娘が重ねられているとするならば、オト先生にも戦後の人物が重ねられていると考えることが可能だろう。そういう教師が戦後にあったとするなら。遠山啓が唯一、その輪郭にふさわしい人物として考えられるだろう。そして遠山にもオトの音は逆向きに入っている。
著者の命名法はさらに先に敷衍することが可能だと思われる。第I節、第II節で執拗に反復される「エリアンおまへは此の世に生きられない」という言葉は、オト先生が「僕に告げた」ものとして書かれ、オト先生の「言葉は暗示した」、イザベル先生の「暗示は真実なのだ」とたたみかけられながら、エリアンが自分自身に向かって、さらには作者がエリアンに向かって繰り返す呪詛のように読むものに迫ってくる。この一人ではなく複合的に反響する言葉の声はオト先生のモデルとされている今氏乙治や、もしかしたら念頭にあったかもしれないsネゴの遠山啓だけからやってくる声ではないように思える。そう考えた時、オト先生は」、この作品でただ一人、フル・ネーム風の姓・名の組み合わせであるかのようなイザベル・オトという名前を与えられていることにもう一度目がゆく。イザベルという西欧ではよくある女性名をそれこそ暗示があるのではないか、と考えた時、イザベルには太宰治のダザイの音が逆向きに入っていることに思い至る。
太宰を想定することで、はじめてその「言葉」や「暗示」の強い強迫の響きが腑に落ちてくるように思える。
太宰治は著者にとっては戦後の真の教師というべき存在だった。会いに行った著者に対して、男性の本質は、「マザーシップだよ」と言ったことが意識されての女性名詞であったかもしれない。あるいはbelle Dazai(ベル・ダザイ)から音と文字を拾ってつけられた名前だったのだろうか。後に太宰について、エリアンのよう声を響かせて書かれた短い文章がある。「太宰が、デカデンツの人として、じぶんを負の十字架の上に処刑したとき、わたしのなかで何かが死ぬのを感じた。それからあと、なぜ生きてこられたのか、じぶんでもよくわからない。」(「太宰治の作品」
(x)エリアンは、『詩文化』に発表された「エリアンの詩」では、その詞書からはっきりともうこの世には存在していない「死者」として扱われている。「エリアンの手記と詩」では、第I節から第Ⅲ節までの表題が、「死者の時から」とされていることからも、未遂の死者として、ほとんど生と死の境界を往き来うる存在とされていることがわかる。(ミリカでさえ最後の節で急速に死に近い描写に変容されている。)
物語の上で死あるいは未遂の死は、あくまでも登場人物である少年一人のものでしかないが、そこに書かれた自伝的背景としての時期と著者がこの作品を書いている時期の前には、禁句のように戦争と戦争の死が潜んでいる。その死者には東京大空襲で戦災死した今氏乙治といわば敗戦死した太宰治の死が、未遂の死者には生きて戦争を通過した著者自身が重ねられていると言うべきかもしれない。
自伝的な背景と作品がこだましあうようなことは、未遂の死について他にも生じていた。一九六〇年代後半に学生たちの間では「ヨシモトはエリアンのように死のうとしたことがある」という風聞が囁かれていた。それは「手記と詩」が自伝的背景を持っていることから、物語の方から逆に作者の現実の方に移しかえられたものだと思われるが、著者の「咽喉の真中」の喉仏には確かに古い傷跡が残っていた。
(xi)著者のキリスト教を主題とした詩は、「異神」(一九四六年一二月)の他にはないと言ってもいいほどに少ない。「『時禱(Unixode7981)』」詩篇」(一九四六年一一月―一九四七年三月)、「詩稿X」の中にわずかに「神」の語やキリスト教に触れる言葉が見られるばかりで、それはまた「米沢時代にたいする回顧を主題」とするものを含んでいた。そして米沢時代を回顧するものには他に「巡礼歌」(一九四七年七月)がある。「エリアンの手記と詩」は「『時禱(Unixode7981)』」詩篇」中の「習作廿(Unicode52FF)四(米沢市)」(一九四六年一二月)や「巡礼歌」の一部をほとんどそのまま引用したと言えるような箇所やエピソードの再話をかなり多く含んでいる。
(xii)著者は今氏乙治の私塾へ通った時代と米沢高等工業学校の時代を「黄金時代」と呼んでおり、それを「物語化(劇化)して保存」することが、この作品の「『モチーフ」だったとたびたび書き、また語っている。それは十六歳のまだエリアンとは名付けられていなかったはずのエリアンを、二十五歳のエリアンが書くような行為であったから、敗戦をまたぐ戦前と戦後という時間、少年期と青年期という個人の時間の二つの時間の亀裂が解きほぐし難く絡み合った時期を往き来する、また通過してゆく作業がそこにあったのだと思われる。著者のいう「まばゆいものと感じていた」「揺籃の時期と場所」を保存するというモチーフは、「敗戦直後の混迷」を模索する作中の言葉を使えば「陰画(ネガティブ)」のモチーフで脅かされ、懸命に支えられていたのだと言える。
(xiii)以上の諸点も踏まえて、この作品の制作年代の推定に改めて言及するならば――(unicode2015)旧作の引用ないしエピソードの再話に一九四六、一九四七年のものが含まれ、一九四八年四月に清書が終えられた「詩稿X」に断片的な原型を持っているが、作品としては、一九四八年の後半から、おそらくは太宰治の自死(一九四八年六月)を直接的な引き金として構想され、一九四九年にかけて制作が続けられ、著者の納得のいく完成までに至らなかったため、その時点で発表されなかったものと思われる。(草稿詩篇意外に、書かれた時点で発表されなかったのは「(海の風に)」と「エリアンの手記と詩」だけになる。
七九四・下7 三四・12 三〇〇・3、五九五・2
【「被いで」の事例一カ所三〇〇・3を追加して右のように訂正する。】
七九九・下・6 1950.03.10←1050.03.10
【通常のピリオドの打ち方と違うが、ノートの記載通りに再現する】
八〇〇・上・3
1950.04.30←1951.14.30
【箴言II】ノート用紙のインクで記された数字は、経年劣化で0のインクのたまりだけが残って1のように見えているのを、ゲラの写真版だけで迂闊に赤字入れしてしまったものを正した。十七行後の「箴言I」末尾の日付と整合しなければおかしいはずであった。
八一〇・下・23 してあげられている。(第一巻では原稿ママにした。)
【( )内を末尾に補った。】
補記(1)~(3)の考え方は
既刊分の誤植その他の訂正は、目先の配本作業を優先し、全集最終刊行時にまとめてお知らせする旨、第八巻の月報末尾等に記したが、誤植にとどまらない誤認・誤記の類いも散見され、やはりなるべく早くお知らせするべき思い至り、まったく遅ればせながら以下にまとめる作業を始めることにした。
配本が先へ進むことで新たにわかったことも含まれている。
訂正や補記は巻数順・ページ順にまとめ、簡単なものは
(例) 一〇五・3 ○○○○←×××××
のようにページ数、行数を記し、正しい(あるいは妥当な)記載を上(左)に、訂正・修正すべき既刊の記載を矢印の下(Webでは右)に記した。多少の説明があったほうがよいと思われるものについては、その前後に 【 】 で注記するようにした。
訂正したものが長い記載になる場合は
(例) 六一〇・11-12 [○○○]○○○○○○○○○○○○○○のようにページ数・行数と訂正した記載だけを記し、どこを訂正したかがわかりやすいように、語句を [ ]で補ったり、その訂正箇所に傍線を施したり、【 】で説明したりした。
また解題での訂正において、行頭に校異のページ数・行数の表示がある場合は、
(例) 五五五・上18 [四六八・2]神= [初]←街=初出に戻した
のように、その行頭の表示を〔 〕の中に入れた。
(間宮武彦)